小説 | 霧笛海峡(前編)

書籍画像「霧笛海峡(前編)」

著 / 出口臥龍

  • サイズ:四六判(W127xH188mm)
  • 製本:ソフトカバー
  • ページ数:156ページ
  • 発行日:2017年10月17日発行 第1版 1刷
  • 価格:1,400円(+消費税)
  • ISBN:978-4-907446-66-6

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内容紹介(一部)

プロローグ

石段を上り詰めると、春帆楼の庭先だった。眼下に海峡が望める。

両岸には小高い山が迫り出し、抉られたような急流になっている。春帆楼は下関側の山の裾野にあった。左手には本州と九州を結ぶ鉄橋がそそり立っていて、そのあたりが海峡一の隘路であった。幅は一キロと離れてはいない。大型客船やタンカーが注意深く行き交っている。……関門海峡だ。

〈こんなに狭かったかなあ〉三十五、六年も前に小学校の遠足で訪れたことがある。大河だったという記憶を裏切る狭さだ。

――小学生の関心は海峡にはなかった。ここで討ち死にした平家武者の怨霊が、蟹の甲羅に乗り移って人面になったという話や、琵琶法師が夜な夜な平家一門の墓所に呼び出され、あげく耳を引き千切られて、耳なし芳一になったという説話のほうにあった。

「ほれほれここが、芳一が座っていた処だよ」と教師が指差した。苔むした一門の墓が、背後に魂を背負ったように佇んでいた。そのときの衝撃の大きさは忘れられない――

(以下略)

第一章

山口県下関市は本州の最西端だ。

壇ノ浦古戦場や、武蔵と小次郎が決闘した舟島(巌流島)のような名所旧跡である一方、河豚漁や捕鯨船で知られる港町でもあった。さらには関釜連絡船の発着港であり、北九州工業地帯の一角をなす重化学工業の要所でもあった。

中国地方を大腸の末端と見立てると、下関は肛門にあたる。本州の情報がいったん隘路に集積し、九州という異文化の地に渡って拡散していく。

人とカネの集まるところには利権が生まれ、これに群がる蟻のように得体の知れない男たちがたかってきた。しかも日本が太平洋戦争にやぶれ、がむしゃらに生き延びようと人心も荒廃していたころだった。

数ヵ月ごとに、身体の大きな男たちがトラックで住宅地に乗り込んでくる。太めのワイヤーのさきに一センチほどの環を作り、そのなかにワイヤー自体をくぐらせた器具を握っていた。男たちは不気味な笑みを浮かべながら、片っ端から犬の首にワイヤーをかける。暴れればあばれるほど、輪は首に食い込む。口から血の泡を吹き、脱糞した犬をトラックの荷台に放り上げ、疾風のごとく去っていく。

彼らが来ると「犬殺しがきた」と叫んで、自宅の犬を家に引き込み、わずかに窓を開けて殺戮の成り行きを見守った。

狂犬病が蔓延していたころで、男たちは保健所の委託を受けた業者だった。飼い犬に首輪をつける習慣などなかったから、犬は無差別にひったてられたが、子どもの目にはあまりに酷い光景だった。

(以下略)

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