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研究・評論

人生の証

著者 / 今村富士雄
サイズ:A5
製本:ハードカバー(函付・クロス貼)
ページ数:82ページ(カラー+モノクロ混在)
発行日:2010年3月28日
内容紹介(一部)
ヴェトナム見聞記(仏寺を訪ねながら)

ヴェトナムは比較的未知の国である。最近は欧米、日本からの觀光客が多い。仏教は、特に目立った特色もなく、小生自身も関心がなかったが、觀光目的でヴェトナムを訪れた。仏寺を出来る丈け多く見学したかったが、時間もなく、觀光を主として居たので、仏寺訪問も限度があった。ヴェトナム政府(共産政権)は出版物を統制して居るので宗教関係の書籍は少なく、資料を集められない。以上の前提の下に、知り得た範囲内でヴェトナム仏教を含め国情を記述してみた。元来、宗教、政治、庶民生活は相即不離の関係にある。依って、第一に此の国の歴史を見てみよう。ヴェトナムは総人口七千二百万、その中の九割はヴェトナム人(京族)であり、他は五十三の少数民族(中国系華人を含む)である。宗教は仏教、儒教、道教、キリスト教(カトリック)、イスラム教、土俗神信仰で多種多彩である。しかし、人口の七、八割は仏教徒である。紀元前千年頃は、ドンソン文化と云う太陽神信仰の青銅器文化が北ヴェトナムを中心として存在した。紀元前一一一年、前漢が北ヴェトナムを征服し、以来、千年に亘る中国支配の時代となる。一世紀末、中部ダナン附近に、チャム族によるチャンパ王国の成立が史上に現れる。八世紀末、唐の安南都護府が設置され、この頃、日本人阿倍仲麻呂(天の原ふりさけみれば・・・の望郷の歌で有名)が都護として駐在して居る。十世紀の中頃ゴーグエン(呉権)が南漢を破り、呉朝を創始する。以後、チンパ王国や、南部メコン、デルタ地帯のクメールの侵入を除けば現在までヴェトナム人の政権時代となる(仏領印度支那時代を除く)。一〇〇九年、リー・タイ・トウ(李大祖)が即位し、本格的ヴェトナム独立王朝が出現し、ハノイに首府を置く。一二五五年、チャン(陳)王朝となる。一四二八年、レ・ロイ(黎利)によるレ朝創立、この間、元、明の軍隊の侵入がある。一七八九年、西山党のグエン・フエ(阮恵)が統一し、一八〇二年ザロン(嘉隆)帝がグエン(阮)朝を創立しフエを首都とする。一六九七年に阮氏によってシヤン国は亡された。阮朝は一八八三年、フランスの保護国となる。仏領印度支那の成立は一八八七年である。以后、一九四〇年の日本軍の進駐、ヴェトナム民主共和国の独立宣言、そして、一九六四年、ヴェトナム戦争が始まる。即ち、北の共産政権と米国が支援する南の政権との戦ひで、後に米国が直接参加し、最終的には、米軍の撤退で一九四五年統一ヴェトナム社会主義共和国が成立し、現在に至って居る。以上の歴史の中で宗教の存在は如何であったか。ヴェトナムの仏教は、中国隋、唐(六〇〇〜九〇七)の時代に中国より伝来した禅宗系淨土系の大乘仏教である。ヒンヅー教(後期は、密教化する)のシャンパ王国の滅亡後には、クメール系少数民族には小乘仏教が信仰されて居り、メコンデルタ地帯には、タイ仏教(小乘)の寺院がある。南ヴェトナムのシャンパ王朝のシャム族はヒンヅー教の民であるが、次第に印度密教化し、土俗信仰も受け入れた。ヒンヅー教の流入は四、五世紀頃ではないか。ヒンヅー教三神の一つシヴァ神を祀り、王と一体のものとし、土俗神をシヴァ神の妃ウマー神と同一化にして居る。ヴィシヌ神が居ないのはシヴァ派の信仰と思はれる。処で、シャンパ王国には紀元前後から、インド人が、金、香料、香木、真珠等を求めて、来航して居る。一方、北ヴェトナムは中国文化の流入で王の居城も中国北京城等に模して建立され、政治組織等も中国を範として居る。文官登用の制度、即ち科擧の制度あり、ハノイの文廟(孔子を祀る)は日本徳川幕府の学問所である昌平黌に似た學校である。民間には風水、隠陽、易占が根付いて居る。日本との関係をみるに、十六世紀後半より、十七世紀の一六三九年の鎖国に至るまで、日本人の海外進出は盛んで、山田長政のシャム(タイ)での活躍(一六二〇年頃)は衆知の事実ではあるが、ヴェトナムにも、多くの日本人が交易のため来航し、中部、ホイアンに日本人町があり、香料、香木、安南陶器等を日本に運んで居る。扨、文字の成立と他国よりの影響に觸れてみよう。ヴェトナム文字は当初、漢字の二字を組合せて造られたと云うが(資料なし)、現在のヴェトナム文字は、ヴェトナムがフランスの保護国になった時、フランス人の指導下に造語されたもので、アルハベットによる表音文字であるが、アルハベットに符号をつけて(六つの声調)、同一文字の音声の変化によって、その意味を分別する。隨って、発音が難しい上、北と南では言葉を異にするものあり、方語も混えて(ハノイ言葉、ホチミン言葉)甚だ聽取りにくい。中国の北京語、上海語、広東語以上である。以上、前書が長くなったが、これから仏教の現状と仏寺と庶民との関係、仏寺の建築、仏殿の祭祀等に就て話を進める。旅は北のハノイから南のホチミン迄であった。それで、ハノイの見学に付随して中部、南部の様子を述べる。首都ハノイ市内で学問の神、武神等を祀る玉山祠、蓮池の中央に高柱で支えられた小堂に十一面千手觀音を祀る一柱寺等を見学。郊外の崇福寺(テイ・ウオング寺)を訪ねた。この寺は、周囲が田園であり、その中の高い岡の上にあった。尼寺であるこの寺は山門と縦に列んだ長方形の煉瓦造りの三つの建物と附属設備からなる(ヴェトナムの寺院は木造、煉瓦造、新しい寺はコンクリート造)。仏寺の建物の配置は原則として“三”型で建物の構造は“ロ”型、即ち、長方形であるが(必ずしもこの形式によらないものもある)、この寺は、原則通りである。建物の窓は丸形で、仏教の生死觀のシンボルであり、窓の棧も曲線で渦巻状である。瓦覆きの屋根の庇には龍、獅子、長槍型の草の飾物で豪華である。別棟の粗末な小屋に、梵鐘が吊してあった。一般に、寺の梵鐘は山門に部屋のある場合は、その中にあり、日本の鐘樓や鼓樓の如く、目立つ存在ではない。又、吊り下げられない鐘が小屋にあり、屋外にある場合には、高い台座に乘せてある。それ等は寺の創建当時のものか、由緒あるものであるらしい。境内には、大人、子供と十人以上の赤い線香や土産品の押賣りで賑々しい。この風景は何処も同じだが、ホチミンでは花賣りが多かった。ホチミンの寺では花、線香と一緒に、日本の所謂、一文銭と同じ穴あき銭を賣って居たが、それは仏前に献じて仏前に奉献ぜられのと交換し、お守りとするらしい。日本の寺で出すお守り銭、財布に入れる福銭、又、鎌倉の銭洗の財天などを思ひ出させた。此の寺の第一棟は正面の祭壇の上段に過去、現在、未来の三仏が並び座­する。それぞれ、説法印、禅定印、引接印を結ぶ。二段目に釋迦、小型の誕生仏が座す。床上には、中国風の服装をした人物が五、六人待立、又は椅子に座す。多分、この寺の宗派(禅宗)の開山、貢励者の像と思はれる。祭壇の両側の柱に漢字の聨が吊るされて居る。この堂の入口に、守衛たる執金剛神(仁王)が立って居る。両壁に二十体の羅漢像、別に苦行の釋迦像が安置されて居る。第二棟には阿彌陀仏、觀音、勢至の三体がある。別に、十一面千手觀音が祭壇に座す。処で、ヴェトナムでは禅淨一致、禅、淨土の何れの寺でも釋迦、阿彌陀が並存する。この崇福寺見学の後、他の寺を訪れる間に、奇妙な事に気付いた。それは前記、過去、現在、未来の三仏が不在であったり、釋迦三尊の手前に小さな阿彌陀仏が居たり、祭壇の上から阿彌陀仏、釋迦仏、誕生仏、涅槃仏、そして釋迦と阿彌陀の並べ方が逆になったり、種々様々である。推測するに釋迦が上、阿彌陀が下段なのは禅宗系の寺、逆なのは淨土系の寺ではないのか。又、釋迦の下段に布袋(彌勒仏)、その下に誕生仏が立つ場合もある。過去、現在、未来の三仏を横の線とすれば、釋迦等の諸仏の並べ方は縦の線となる。この配列には、何かの意味があるのか、唯、雜然と置いてあるのか、余計な事を推測したくなった。寺によっては、布袋は独立して祀られ、觀音も同様であるのをみると現世利益、欣求淨土の願いの強い現はれではないか。日本、中国、何れも觀音信仰は大であるが、布袋の信仰は日本ではあまりみられない。ホチミン市の永厳寺では、正面祭壇に三米以上の釋迦三尊が並立する。脇待は文殊、普賢で時に釋迦と阿彌陀の脇待が交替しても気にしない。そして、この祭壇の背面には阿彌陀の座像と二脇侍が立っている。又、釋迦の脇侍は、麻迦訶葉と阿難陀である場合もある。天部の神、四天王、地獄の十王も寺では祀られて居り、寺の仏像(大きな意味に於て)の数は多く一寺で二百、三百ある処もあると云う。特に目立ったのは誕生仏、子安觀音、布袋であり、涅槃仏は少ない。山門は三つの入口があり、日本の鳥居に入口を三つつけた様な簡単なものから、二層三層の部屋付の建物である場合もある。塔も大小様々、時にない寺もある。寺に池のある場合は、水上人形劇に使用される設備も池畔に有する事もある。ホチミン市の寺では、塔は納骨堂となって居た。崇福寺の山門は鳥居型の粗末なものであったが、寺名は山門に漢字横書きで書かれて居たが、寺によっては、正面祭壇に、横書きの額として掲げられて居る。ホチミン市の新しく設立された寺では、山門に漢字とヴェトナム語による寺名の他に、意訳した寺名、そして〝ヴェトナム仏教を説く集合所〟とヴェトナム語で書かれて居たのが印象的であった。その寺でみた執金剛神(仁王)が奈良東大寺のそれと瓜二つなのは驚いた。塔は崇福寺にはなかった。崇福寺の境内に小さな墓塔が若干あった。住職の墓らしい。ハノイ、ホチミンの寺の歴代住職の墓標は高さ四米位の豪華なもので、それが林立する様は壮觀である。寺の経済力の差か。一般寺の墓は、都会では寺から離れた集団墓地にある。田舎では、民家の近くに点在する。墓の型式は日本の円墳小型化した様なもので、その端に墓標らしい石柱が立って居るが、遠くから眺めたのでさだかではない。崇福寺の老尼僧に面会した時、経本を見せて貰った。中国版藥師本願経である。願って、ヴェトナム語の発音で漢字書きの経を読んで貰った。日常の読経もこれであると云う。ホチミンの寺で、二十人位の中老の婦人達が集団で読経していた。その経本をみると、ヴェトナム文字を縦書きにして居る。音読である。何か変な感じだった。旅の中で葬式に出会った。ドラ、弦楽器、笛等の音で賑やかであり、死者の親族は白い鉢巻をして居る。喪服の代用か。ある寺で僧が易の本を読んで居た。ヴェトナムでは、易占を業とする事は禁ぜられて居るが隠れて商売しているとの事だ。彼の僧は何のためなのか。陰陽学、風水星占、易学は庶民生活の中に浸透して居る。そして、カトリック教徒、イスラム教徒等もこれ等を排除しない。規律の厳しさなく、汪洋なものである。話を農民生活と仏教徒の関聨に移そう。北部ホン(紅)河デルタ地帯と、南部メコンデルタ地帯は遠々と田畑が広がる。小生の訪ねた十二月末は乾季であるが米の一回目の収穫を終えて、田植の準備中、又は既に、田植を終了した処もあった。農村には土俗神の雲神、風神、雷神、雨神が単独、又は二、三体一ヶ所に祀られて居る。場所は神廟、仏寺等である。廟と云えば、地域の先人の廟もある。部落毎に小仏寺があり、その運営管理は僧に協力して、部落民の責任で行はれる。又、皇帝、貴族等の建立した大寺は建立者の責任で運営された。最近は、有力な財産家の出資で出来た寺もある。農業は天候に支配される。旱魃、多雨、洪水等を止めるための祈願、作物の豊穣、収穫感謝の祈願に前記四神を適宜組合せ、部落の集会所兼部落守護神を祀る場所に集合させる。寺に集める時もある。其の場合、神像を輿に乘せ、その前後を部落民が行列して行く。男女は踊り、歌ひ、又供物を持つ者も居る。僧も祈願には参加する。農民と僧は一体である。日本の明治期以後の神仏混淆の時代と変らない。即ち、神仏を区別しない。家庭では庭に屋敷神を祀り、座敷には携帯可能な先祖霊を祀る小型の仏壇がある。ホチミン市を中心とする地域の中国人華僑もそれぞれ、仏教、神道、道教神を祀る寺を持つ。前述、メコンデルタ地帯のタイ仏教(小乘)の寺は釋迦像のみを祀る。建築様式もタイ風である。ホチミンには禅宗(曹洞、臨済の二系列があるが、臨済系が多い様だ)の乞食を主たる行とする宗派の寺があるが、珍しい存在である。前述の如く、寺は自給を旨とし、住民の援助を受ける。ある寺では、味噌、醤油を製造販売して居た。僧は独身で寺内に住む。最近は日本の影響で妻帯する僧も現はれ、その僧達による新しい集団が生れたとか。別に、仏教に関係ある新興宗教の外見を述べる。ホチミン市の北西タイニンに本部を置くカオダイ(高台)教は信徒一五〇万、一九六二年布教を始める。キリスト教、仏教、儒教、道教、イスラム教等の教義を綜合した宗派であって、本尊は直径四米程の球で中心より左よりに、人間の左眼が画かれて居る。仏の第三の眼に相当するものか。祭壇に位牌様のものが林立して居る。思うに、世界の宗教の創始者や聖者の牌である。建物はキリスト教聖堂と同じ吹き抜けの高天井で、床には椅子もなく広々として居る。建物の屋根にゴシック尖塔、ビザンチン式の円型屋根や、中国建築様の構造物が乘って居る。堂の内部、外郭の廊下は、沢山の柱で支えられて居る。全体的に色彩豊かで、龍や草花の彫刻もみられる。拝礼を参觀したが僧の服装は青、赤、黄、白で女子の上位の者が、イスラム風の白色の長いベールを被って居た。一般の信者らしい一団は男女共、無帽白衣である。礼拝の時、最前列に、独り青服の僧が笏の様なものを持って居たが、それぞれが祭主である。帽子は四種類位であったが、帽子と法衣の色によって、地位、階級は異って居る様だ。ヴェトナム仏教徒は北部は茶色、南部は黄色と大畧決って居るのと相違する。無帽白衣の男女は、最後列に座する。読経の合唱は、キリスト教の聖歌か、仏教の声明か。読経の伴奏は笛、ドラ、弦楽器で、五六人で奏するが、ギターもあるのは国際的である。祈りの印相は、仏教の内縛印の様な握り拳を合せる合拳である。別棟に独立した觀音堂があるのも、現世利益を優先する現れなのか。他に、ホアハオ教(信徒一八〇万、加持祈祷を主とする)があるが見学したかった。以上、ヴェトナムの仏教を眺めて来たが、この国の人の仏教觀は日本人に近い。猶、チャンパ王国のヒンヅー教寺院が密教化するのは、十一世紀頃からではないかと思う。それは、カンボヂヤのクメール王朝によるアンコールワットの建造が十二世紀で、建築物の壁面に仏伝や説話による情景が浮彫にされて居り、それと同様なものがチンパ王朝寺院にもあるからである。クメール王朝は十三世紀に消滅するので、チャンパの密教の最盛期は十二、三世紀ではないか。最后に食文化と建築物に觸れてみよう。茶と云えばホテル、飲食店では紅茶を出す。一方、寺や個人宅では、南支那と同じ煎茶を馳走になった。しかも猪口ほどの小さな茶碗である。日本の煎茶道の道具の茶碗と同種である。茶は薫を樂しみ、味をみるもので飲むものではないと云う日本煎茶道と同じ考えから来て居ると云うが、茶が比較的高価であると云う理由もあるらしい。料理は、支那料理の油を薄めたものであるが、野菜を彫刻して花、鳥等を造り、料理に添える宮廷料理は一種の芸術品と云ってもよい。米は、日本米にやゝ劣る感あり。果実は種類多く、日本で食するより美味、新鮮であると思った。酒類は、ビールの需要が多い様だ。気候のためか。パンはフランスパンのみである。フランスの統治下にあった故である。農村の家屋は煉瓦と木材の組合せが多い。都市はコンクリート建築が多くなって居る。フランス風建築も、フランス統治の名残りを示す。特に、カトリック教会の壮大さが目立つ。以上、雜然と、見たまゝ、聞いたまゝの旅行印象記を述べた。ヴェトナム政府はドイモイ(刷新)政策をとって居るが、前途は多難の様だ。経済発展とは何か。古い伝統と文化の消え行く姿を見て、何か寂しさを覚えた。

追記

ヴェトナム文字は十世紀頃から前述の如く漢字の組合せで表した字喃と云う文字を使用する事としたが、字画が複雜で使ひにくいため一般化されずに到った。