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学術本

オランダ商館日誌と今村英生・今村明生

編著 / 今村英明
サイズ:B5判
製本:ハードカバー
ページ数:672ページモノクロ
(カラー2ページ)
発行日:2007年12月25日
価格:18,000円(+消費税)
ISBN:978-4-903935-02-7
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今村様は他にも書籍を作られています。


史料として
●18世紀の商館日誌としては初めての本格的邦訳。
●豊富な部門別特殊用語の索引により逆引き商館日誌としても利用可。
●ケンペルやツュンベリーを従えた商館長たちの江戸参府日誌初邦訳。


内容から
●シドッチ事件や徳川吉宗の洋学に関する新事実。
●危機的状況下での日蘭貿易の息詰まる折衝。
●出島で繰りひろげられる数々の出来事や人間関係。

解説 阿蘭陀通詞とオランダ商館日誌
1.オランダ商館日誌とその時代背景

英生像

江戸時代、幕府はいわゆる鎖国政策を堅持したが、西欧との唯一の窓口として長崎の出島にオランダ商館が存在したことは良く知られている。オランダは1602年連合オランダ東インド会社VOC(De Vereenigde Nederlandsche Geoctrorjeerde Oost-Indische Compagnie)を創立し、1606年(慶長11)徳川家康から朱印状を得て1609年(慶長14)長崎の平戸に商館を開設し本格的な対日貿易を開始した。

一方幕府は幕藩体制を維持していく上でポルトガル人宣教師によるキリシタンの拡大に危機感を抱いた。1636年(寛永13)ポルトガル人を当時完成したばかりの長崎の出島に監禁し間もなく追放した。翌1637年(寛永14)島原・天草の乱が起き幕府は益々警戒を強め1639年(寛永16)ポルトガル人の入国を禁止した。宗教を禁じ、しかも西欧との貿易は継続するという政策を遂行するため幕府はローマのカトリックと対立関係にあるプロテスタントで日本に駐在するのは東インド会社職員とその使用人だけというオランダに門戸を開くことで解決を計った。幕府は1641年(寛永18)長崎住民の強い要請もあり空家となっていた出島に平戸からオランダ商館を移した。以後その商館の機能は幕末まで約220年間続いた。


明生像

出島のオランダ商館は東インド会社バタビア総督の監督下にあった。長崎に来航したオランダ船団が任務を終えバタビア(現在のジャカルタ)へ向け出港する日を以て交代する歴代商館長はそれ迄の約1年間の任期中に書き記した公務日誌を携行し帰任の報告としていた。この公務日誌はオランダ商館日誌Japans Dagregisterと呼ばれ、平戸時代のものも含め現在オランダ国ハーグ市Den Haagにある国立中央文書館Het Nationaal Archiefに所蔵され、日本学士院図書室に手書き写し、東京大学史料編纂所にマイクロフィルムとその焼付け本がある(口絵参照)。日誌の内容は主に貿易業務に関する記述であるが、その他にも興味深い様々な日常の出来事が記されており当時を知る貴重な史料として高く評価されている。日本側の情報の殆どは日本人通訳官である阿蘭陀通詞を介して得たものであった。

15世紀末頃から本格化するヨーロッパの大航海時代の余波を受け、17世紀初め頃日本では主に平戸を中心にポルトガル、スペイン、英国、オランダなどの貿易船が来航しいわゆる南蛮貿易が盛えていた。当時は共通語としてポルトガル語が使用され日本側にも南蛮通詞と呼ばれる通訳がいて仲介に当たった。当初はオランダ人もポルトガル語を交え南蛮通詞を仲介者としていたが、南蛮通詞も徐々にオランダ語を習得した。その頃はオランダ商館長に1年交代の制約はなかったし、オランダ人の中にも日本語を習得した者もいたと思われる。しかし前述の如く1641年オランダ商館は平戸から出島に移転させられた。その際南蛮通詞から阿蘭陀通詞に変貌しつつあった通詞の一団の大部分も商館の移設に伴い長崎に移住した。当時の阿蘭陀通詞として知られる家名を史料により挙げると高砂、肝付、石橋、秀島、名村、西、志筑、横山、貞方、猪俣、本木などである。長崎移住後も必要に迫られ通詞の補充が行われた。楢林、加福、中山、立石、馬田、森山、今村、岩瀬、堀、品川、茂、吉雄、末永、馬場などである。阿蘭陀通詞の先祖の出自は武士が多く、又、帰化した中国人などもいたと言われる。

出島に移設したオランダ商館に対し直接の監督者である長崎奉行は監視体制を強め、オランダ人に対し日本人との自由な接触を禁じ、長崎奉行の支配下で極めて制約された商活動しか許さなかった。オランダ人には日本語の学習を禁じ、あまり日本語の上手な商館員は日本から強制的に退去させられることもあった。商館長は留任し日本滞在を続けることは許されず原則1年で交代させられた。その結果オランダ人にとって日本語による商取引は不可能となり、仲介役としての通訳官である阿蘭陀通詞に頼らざるを得なくなった。

このような体制が徐々に完成し、同時に阿蘭陀通詞の組織も整備された。17世紀末頃には長崎奉行の下に通詞仲間tolken collegieと呼ばれる一種の世襲制株仲間が形成され、職階として通詞目付(2人)を筆頭に大通詞(4人)、小通詞(4人)があった。通詞予備軍として稽古通詞(10数人)と称する一団があり通常通詞の子供達がそれに就任した。彼等は奉行所から給料を支給され、身分は町人ながら町役人として苗字帯刀を許され、公文書には姓名を記し諱を捺印した。基本的にはこの体制が幕末まで維持されるが、時代の必要に応じ職階が分化し例えば大通詞助役、小通詞助役、小通詞並、小通詞末席などが追加された。

それとは別に内通詞と呼ばれる町人身分で、町役人である通詞より一段低い家格の集団が存在した。彼等はオランダ人に直接雇われ身の回りの世話をしたり、取引の仲介をし口銭を得たりしていた。内通詞の集団では彼等を統括するため内通詞小頭が制定された。17世紀末頃には12人の小頭が100人内外の内通詞を統率していたと言われる。内通詞集団やその家族の中から稀には抜擢され通詞になる者もいた。

通詞の主な職務は先ずオランダ商館長を筆頭とする商館職員との日常の業務連絡及び雑用の世話であり、これには通詞仲間から毎年選ばれる2人の年番通詞が当たった。年番は大通詞1人と小通詞1人で構成された。年番通詞の最も重要な役割は言うまでもなく貿易窓口業務であった。貿易関係業者がオランダ側と直接折衝する場合とか、建家や艀の新築・新造や修理のための大工の棟梁や日常品売り込み業者との仲介には通常年番通詞が当たった。しかし年番のみで埒があかない重要な折衝には通詞仲間全員で対応した。船団が到着した際、オランダ側からの海外情報の提供が1641年より定例化された。その翻訳及び報告書の作成も年番通詞の重要な業務であった。この報告書は「阿蘭陀風説書」と呼ばれ長崎奉行の承認を経て直ちに幕府に報告された。

通常船団は5月下旬から6月初旬にバタビアを出航し7月下旬から8月にかけ長崎に到着した。天候によっては9月になることもあり、運が悪ければ遭難することもあった。船団は1633年(寛永10)以降原則日本暦で九月二十日に長崎を出港するように定められた。その間に多忙を極める取引が集中した。

商館が出島に移ってのち数10年間は毎年5〜6隻多い年には12隻(1665年)もの帆船が来航しオランダ貿易は活況を呈した。オランダ船団が持ち込んだ商品即ち生糸、反物(毛・絹・綿織物)、砂糖、染料、香辛料、鮫皮、薬種その他雑貨類は生糸を除き入札で取引されていた。船団は商品以外に将軍への献上品、高官への進物、誂え物、商館用備品、食料・日常品、個人荷物なども運んだ。生糸は糸割符商人pancado koopliedenと呼ばれる株仲間が独占的に扱った。彼等は堺・江戸・京・長崎・大坂の五箇所の町人代表により組織されていた。オランダとの独占生糸取引はパンカド仕法と呼ばれていたが1655年(明暦元)その制度は一旦廃止され生糸も他の商品と同様入札となった。これを相対貿易と称しオランダ人は自由貿易vrijhandelと呼んだ。一方日本からの輸出は地金や貨幣が主で磁器、漆器、樟脳その他雑貨で補った。支払いは当初銀であったが、1668年(寛文8)オランダへの銀の輸出が禁止されると金貨(小判)、銅貨、銅地金(棹銅)に代った。この相対貿易はオランダに有利で1666〜1673年は毎年商館の純利益が1,000,000グルデンを超え1671年には1,808,236.グルデン14.スタイフェル3ペニンゲンにも達した。その一方日本側は輸入品の高騰や金・銅の過剰流出を招き、その結果幕府は貿易統制を強化した。1672年(寛文12)幕府は生糸を含む全ての輸入商品を五箇所商人による市法会所での非公開入札により価格を定め奉行の名に於てオランダ側に指値しその価格を押し付けた。これを市法商売と称しオランダ人は評価貿易taxatiehandelと呼んだ。〔・・・〕